3つの時代のインフレ局面から読むマンション市場(その1)

~昭和 住宅取得への夢~

2026年03月31日 / 『CRI』2026年4月号掲載

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目次

戦後日本はこれまでに3度の大きなインフレ局面を経験してきた。第1の局面は1970年代の国内経済の混乱と「オイルショック」が引き金となって起こった急激な物価上昇である。第2の局面は1980年代後半から1991年にかけてのいわゆる「バブル期」に生じた資産価格の急上昇と、それに伴って起きたインフレである。そして第3の局面が約四半世紀を経た現在、人口減少・超高齢化という人口・需要構造の変化の中で経験している2022年以降のインフレであり、今もなお、私たちはその渦中にいる。これら3つのインフレは発生要因も社会情勢も経済・社会構造も大きく異なる。本誌では過去のインフレをトレースし、それぞれの類似点・相違点を検証しマンション市場にどのような影響を及ぼしてきたのかを明らかにすることで、今後検討すべき事柄について考察していく(図表1)

1.1970年代の国内経済の混乱と「オイルショック」がもたらしたインフレ

1970年代の日本は、国内外の要因が複雑化する中で、消費者物価指数が前年比で20%を超えるという、戦後最大級の物価高騰に直面した。国内要因としては、当時の田中角栄内閣が掲げた「日本列島改造論」による大規模なインフラ投資によって、土地投機が加速し地価と物価の急騰を招いた。また、当時の円高を阻止するために、日本銀行が大規模な金融緩和に踏み切ったことで、景気の過熱を助長した。一方、外部要因としては、1973年10月に勃発した第4次中東戦争に伴い、原油価格がわずか数ヵ月で約4倍にまで跳ね上がり、あらゆる製品の製造・輸送コストが上昇した。この供給コストの急上昇は「物資がなくなるのではないか」という不安感を煽り買い占め騒動に発展し、さらなる価格上昇を招いた。トイレットペーパーを我先にと買い占めている様子をTVの報道で見た記憶がある方もいるだろう。1966年のいざなぎ景気を背景に2,000円を突破していた日経平均株価も、1973年には4,000円台へと上昇基調を強めていた。

一方、その当時の日本では約271万戸の住宅が足りないとされ、住宅難を解消することを目的に1955年日本住宅公団が発足した。その翌年の1956年には第1号物件として総戸数900戸の「金岡団地」(大阪府)が完成し、首都圏においては「晴海」(東京都)、「ひばりが丘」(東京都)、「常盤平」(千葉県)など比較的都心に近い立地に次々に大規模団地が建設された。

民間分譲マンションの黎明期と言われる1965年には民間企業が手がけた初の分譲マンションとして「四谷コーポラス」が注目を集め、民間による分譲マンション事業は大きな転機を迎えた。同時期には、日本住宅公団が「多摩ニュータウン」(東京都)をはじめとする郊外において「団地型」の集合住宅を大量に供給した。官・民のこうした動きを背景として、1964~1965年にかけて第1次マンションブームが起こり、マンション(※1)は「一般庶民でも手に入る住宅」として広く社会に定着していった。

※1「マンション」という名称は安価な賃貸住宅との差別化を図るために、富裕層を対象とした高級な住まい「Mansion=邸宅」という造語が当てられた。

2.拡大する住宅供給

~1970年代前半 第2次マンションブーム~

1970年代前半にかけて訪れた第2次マンションブームは、高度経済成長期の好景気と世帯構造と住意識の変化を背景として住宅市場に大きな変化をもたらした。当時、仕事を求めて地方から都市部への流入が活発化して世帯の細分化(核家族化)が進行し、マンションは「プライバシーの保てる理想的な住まい」として大衆化していった。また団塊世代が婚姻適齢期から家族形成の時期へと移行したことで住宅需要を底支えし、需要拡大に大きく寄与した。

さらに1973年頃までは東京都内の賃貸住宅の家賃水準は比較的安定しており、3万円台後半を維持していたことに加え、住宅ローン制度の整備も進んでいた。1973年1月3日の朝日新聞に掲載された上田篤氏が考案した 「現代住宅双六」により高度経済成長期の日本における典型的な住み替えパターンを双六で可視化したことは、一般庶民に「いつかは持ち家」という夢を抱かせ、需要拡大の後押しをするには十分であった(図表2)(図表3)

〈参考〉1970年代の住宅金融公庫の住宅ローン概要

当時、民間の銀行による住宅ローンが8~9%と非常に高額だったことから国の政策として5.0~5.5%の低金利で耐火構造は35年、返済期間中は金利が変わらない全期間固定金利の融資を提供した。インフレが激しかった当時においては、固定金利は将来的に実質負担額が減少することを意味しており、非常に有利な条件であった。ただし、融資条件として「本人の信用よりも建物の質」が審査されたことや価格の全額の融資は受けられなかったことから、頭金の準備もしくは他行からの融資を受けることが必要だった(図表4)

~1970年代半ば 2桁のインフレ率の衝撃~

1974年に入りついに2桁台のインフレ局面へ突入すると、賃貸住宅の家賃相場は急騰し約4万~7万円というそれまでの相場観からすると大きな変化を遂げる。賃金の伸びを上回るペースで家賃が上昇したため、家賃負担の比率は勤労者世帯の月額賃金の約33~35%に達した。当時、物価全般が激しいインフレに直面していたことを考慮すると、住宅費の負担は非常に重かったことが推察される。

民間分譲マンションの価格動向も同様に、1973~1974年には1年で1,171万円だった価格が1,650万円に跳ね上がり、その上昇率はわずか1年で約41%にも及んだ。住宅ローンは、主な貸し出し主体であった住宅金融公庫の金利が5.0~5.5%程度と、民間金融機関よりも低水準に設定されていたものの、分譲マンションは次第に一般庶民にとって「高嶺の花」とも言える贅沢な住まいへとなっていった(図表1)(図表3)(図表4)

~1970年代後半 第3次マンションブームと終焉~

その後1977~1979年には第3次マンションブームが到来し、3年間で16万戸に迫る分譲マンションが供給された。1970年代当時の首都圏の世帯数が約1,000万世帯であったことを踏まえると、概ね“60世帯に1戸”という割合で分譲マンションが供給されていた計算となり、いかに分譲マンションが大量に供給されたのかがうかがえる。しかし、長期化するインフレと分譲マンション価格の高騰により、次第に完成在庫が積み上がり、その勢いは弱まっていった(図表5)

〈参考〉日本住宅公団の歩みと供給戸数推移(全国賃貸住宅・分譲住宅)

1955年、戦後の住宅不足を解消するため日本住宅公団が発足した。当時としては先進的であった洋式トイレやステンレス流し台、内風呂の標準化など、近代的な設備を備えた住宅の供給を開始し、「モダンで都会的」な生活スタイルを提示した。この新しい生活スタイルは大変な人気を博し、1969~1972年にかけては年間約5万戸の大量供給となった。この時期には「多摩ニュータウン」(東京都)「高島平団地」(東京都)「千里ニュータウン」(大阪府)など郊外部における大規模ニュータウンが相次いで供給された。1981年には宅地開発公団などとの統合を経て、住宅・都市整備公団へと組織再編され、住宅供給だけでなく、都市全体の開発という役割も担うようになった。これまでに多かった2DK中心の標準化された間取りから、多様な家族構成に合わせた3LDKや4LDKといった大型間取りも供給されるようになった。この時期には「港北ニュータウン」(神奈川県)「千葉ニュータウン」(千葉県)など、より都会的な街並み重視のニュータウン開発が進んだ。

1990年代にはバブル経済崩壊後の都市再編が求められ、住宅・都市整備公団も「住宅供給→質の充実」へ重視される施策も変わり、名称も都市基盤整備公団と改正されると、都市の再生・整備中心の役割を担うようになった。

さらに2004年、民間マンション市場の成熟と政策転換を背景に、公団は独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)へと再編される。それに伴い、分譲住宅の供給を終了し、賃貸住宅の新規供給も2013年に終了となった。現在、全国で約70万戸の賃貸住宅ストックを管理しているが、高経年化した団地の維持管理が課題となっている。一方で「MUJI×UR」といった民間企業とのコラボレーションによる新しい住まい方の提案は、若い世代への住み替えを促進するなど、公団の再生と魅力度の向上への取り組みを積極的に展開している(図表6)

1970年代前半は圧倒的な住宅供給数があっても、新たなライフスタイルの提唱に加え、膨大な需要により空室率も低かったが、1975、76年になると長引くインフレと所得の伸び悩みにより、次第に賃貸・分譲ともに在庫がだぶつき供給調整が行われる時代となった。

1970年の住宅市場はまさに「激動の10年間」であり、1970年前半の「供給すれば売れる・貸せる」時代から後半には「買い控え・供給調整」という二極化した市場となっていった。
次回は昭和と平成時代の端境期、バブル経済の中のマンション市場について検証していく。(鈴木貴子)

参考データ

グラフ作成:長谷工総合研究所

グラフ作成:長谷工総合研究所

グラフ作成:長谷工総合研究所

グラフ作成:長谷工総合研究所

グラフ作成:長谷工総合研究所

グラフ作成:長谷工総合研究所

グラフ作成:長谷工総合研究所

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