誰もが人生の節目で何度か迎える「住み替え」のタイミング。しかし昨今、とりわけ都心では住宅価格の高騰によって、新築や広い住居への住み替えのハードルが高くなっています。そこで今、改めて注目したいのが、生活の質やスペースを郊外の別宅で確保する二拠点生活というスタイル。 不動産エンターテインメントサイト「物件ファン」と、マンションプラスによるコラボ企画、初回は、兵庫県の自宅と熱海のリゾートマンションを行き来する高殿円(たかどの・まどか)さんのケースをお届けします。
▲高殿円さん(作家)/ 兵庫県出身。2000年、『マグダミリア 三つの星』で第4回角川学園小説大賞奨励賞を受賞してデビュー。2023年、『グランドシャトー』にて第11回大阪ほんま本大賞を受賞。2024年、『忘らるる物語』にて第23回センス・オブ・ジェンダー賞を受賞。2022年、熱海にマンションを購入してリノベーション。以来、兵庫と熱海を行き来する二拠点生活を実践している
コロナと子どもの独立を機に始めた「自分だけの温泉探し」
熱海駅から車で海岸線を走ること10分ほど。歩いても30分かからない距離の高台に佇む、少しレトロなリゾートマンション。その一室のドアを開けると、窓の外に相模湾のパノラマが広がっていました。
「今日は天気がいいから、『エンジェルラダー(天使の梯子)』が見えますよ」
青い海を借景に笑顔で迎えてくれた高殿さんは、関西在住の小説家。熱海には縁もゆかりもなかったという彼女が、この部屋をセカンドハウスとして購入したのは、2022年のこと。きっかけは、その数年前に直面したコロナ禍と「子どもの独立」でした。
「じつは息子がちょっと変わった特性を持っている子で、彼が生まれてからずっと子育てに全力を注いできたんです。それが中学受験に挑戦して、寮付きの学校に入った頃から精神的な自立も見られるようになって。それまで仕事以外の時間は子育てに100%のリソースを注いでいたのが、10%しか必要なくなったんですね」
子どもの自立はよろこばしい出来事ではあるものの、あまりに急な生活の変化に、強い喪失感から心身の不調を覚える「空の巣症候群」の危機を感じてしまったという高殿さん。もともと旅行が好きで、ジョージアの辺境までジープで乗り込むようなエクストリームな旅もこなすほどでしたが、当時はコロナ禍の真っ只中。心にぽっかり空いた穴を旅行で埋めることもできず、「自分の心の支えになる何か」を探し始めたといいます。
▲南向きの窓から光が注ぐ高殿さんの部屋。日中は冬でも暖房が不要なほど暖かい
「そのとき思い浮かんだのが『温泉』でした。できれば海の近くで魚介がおいしい温泉地に、コロナを気にせず通いたい。それなら、ただ温泉に行くのではなく『温泉地にセカンドハウスを買っちゃえばいいのでは?』と」
思いついた瞬間から、不動産サイトに張り付いていたという高殿さん。そのようにして「いつでも行ける、自分だけの温泉」を探す旅が始まりました。
衝撃の「98万円」物件との出会い
「自分だけの温泉」を求め、日本全国の温泉地を行脚すること2年。西は九州から北は北海道まで、名だたる温泉地をめぐった結果、最終的に辿り着いたのが熱海。最大の決め手は、関西から新幹線一本で行けるアクセスの良さと「水のおいしさ」でした。
「ここの水道水は箱根の伏流水なんです。お水がおいしいと、お米を炊いてもお鍋をしても、全部が格段においしくなる。それってQOLに直結するんですよね。もちろん環境にも恵まれていて、海もあれば山もある。おいしい海鮮もある。著名な財界人や芸能人が熱海に別荘を持つ理由を実感しました」
▲高殿さんのマンションの屋上からの眺め。見渡す限りの海景は息をのむ美しさ
そうしてターゲットを絞った熱海で出会ったのが、「98万円」という衝撃的な価格の温泉付きマンションでした。
「実はこの部屋を見つける前に、ネットで見つけた別の150万円の物件を検討していたんです。でも、迷っているうちにわずか2日で売れてしまって。『不動産は縁とスピード』だと痛感しました。だから、ネットでこの98万円の部屋を見つけたときは、朝9時に発見して10時半の新幹線に飛び乗り、午後1時には現地に着いて、2時には契約のサインをして帰りました(笑)」
当時はコロナ禍のせいでリゾートマンションを手放す人が多く、価格も底値。とはいえ築60年以上のマンションはそれなりに痛み、廃墟同然だったのだそう。買うならいまだと逆張りの発想で手に入れた「98万円の城」は、高殿さんの手によって生まれ変わることになります。
▲広々とした居室の壁一面に広がる海と山のパノラマビュー
部屋が息を吹き返す過程が、心の癒しに
高殿さんが購入したのは、昔ながらの間取りの3Kのお部屋。住むにはあちこち修繕する必要があるし、どうせならもう少し現代的な間取りに変更したい。普通ならプロにリノベーションを依頼しそうな局面ですが、もともと家具やファッション小物をDIYするのが好きだった高殿さんは、思い切って自分の手で直すことに。
「家族や友人の手を借り、3つの部屋の壁を壊してひとつの大きな空間にして、床以外は自分たちで直しました。家のリフォームは初めてだったので最初はおっかなびっくりでしたが、やってみると意外とできるものですよ。一番大変だったのは、古い窓格子をひとつずつ磨き上げて塗り直したことかな。レトロでかわいい建具はできるかぎり既存のものを活かしたかったんです」
▲高殿さんが悪戦苦闘した、外廊下に面した窓の鉄格子。いまや希少な鉄の網入りガラスも含め、磨き上げることで見違えた
リフォーム中、高殿さんの心を揺さぶった言葉がありました。
「壁を塗る作業を手伝ってくれた友人が言ったんです。『壁はいい。塗れば絶対に直るから。人間はなかなか直らないことが多いけれど、家は裏切らない』って。本当にその通りだなと思いました。ボロボロの部屋が息を吹き返す過程は、子育てを終えてリソースが余っていた私の心にとっても最高の癒やしになりました」
▲特注したアクセントクロス。部屋の“見せ場”には手間とコストをかけ、それ以外は程良く手を抜くのが高殿さん流
そうして完成したお部屋は、壁一面の窓から海を望む開放的なワンルーム。こだわりは、ドイツのデザイナーによる特注のアクセントクロスで、プロの手を借りて貼ったそうですが、その部分と床以外はほとんどDIYだというから驚きます。
▲キッチン周りのタイルをはじめ、什器もすべて自ら設置
「キッチンは既存のものを撤去したうえで壁にタイルを貼って、業務用の新しいキッチンを入れて。ベッドボードは安価な足場材を利用して自分で設置しました。そのほか、インテリアも自宅にあった家具を再利用したり手づくりしたものが多く、リノベーションにかかった費用は170万円ほどだったと思います」
窓の外は絶景、バスルームの水栓をひねれば温泉が出る快適なセカンドハウスを、高殿さんは購入価格98万円+リフォーム費用170万円ほどで手に入れたというのです。
▲水栓をひねれば温泉が出てくるお風呂。泉質の良さも折り紙付きなのだとか
付かず離れずの距離が心地良いコミュニティ
現在、月の3分の1を熱海で、残りを関西の自宅で過ごす二拠点生活を満喫している高殿さん。熱海での一日は、朝起きてすぐ、顔も洗わずに自宅の温泉に浸かることから始まります。
「お風呂上がりに近所の魚屋さんで買ってきた海鮮で丼を作って食べて、9時から趣味の株のデイトレード。お昼になって前場が閉まったら、ようやく作家として小説を書く仕事モードに入ります。午前中はずっと海を眺めてしまうので、仕事に集中できないんですよ」
▲部屋のバルコニーからの眺望。椅子に座って海を眺めているだけで1日が終わる時間泥棒な景色
なんともうらやましい生活ですが、ひとりの時間の充実は、ある意味で想定内。二拠点生活を始めて意外だったのは、周囲に広がる人間関係の心地よさでした。
「この辺りには、バリバリ働いてリタイアした『FIRE女子』たちがたくさん住んでいるんです。付かず離れずの心地良い距離感で、みんな『海が好き、温泉が好き、おいしい魚が好き』という共通点だけで繋がっている。誰かがお腹を空かせていたら、『うちでご飯食べていく?』と声がかかるような、温かい小料理屋みたいな交流があるんです」
▲材木屋から安価で手に入れた足場材で手づくりしたベッドボード。そのほか、すのこを活用した足置きなど、高殿さんのアイデアが光るアイテムたちが部屋を彩る
そんな高殿さんの軽やかな暮らしに魅せられ、彼女のセカンドハウスを訪ねた友人の多くが、その後、熱海でマンションを購入しているのだそう。
「友人が遊びに来たら、まずは部屋で温泉に浸かってもらって、湯上がりは海の見えるベランダでアイスでもてなす。その時点でだいたいみんな溶けてしまって、翌朝『ここはパワースポットだ』と、元気になって帰っていきますね。実際、これまで家に来た友人5人全員がのちに熱海にマンションを買ってるんですよ。スピリチュアルな話は信じないタイプですが、本当にパワースポットなのでは? と思うようになりました(笑)」
二拠点生活は、自分らしく生きるための現実的な選択肢
セカンドハウスを買った経験は、高殿さんの仕事にも新たな展開をもたらしました。物件購入からリフォームまでの一部始終を綴った同人誌『98万円で温泉の出る築75年の家を買った』を上梓したほか、今後は地方の空き家を「本を読むための民泊(ブック民泊)」として再生させる活動も計画しているのだとか。
「フリーランスの人や、人生の後半戦を迎える世代にとって、拠点を増やすことは一種の『保険』になると思うんです。それこそ東京のど真ん中で広い家を買うのは難しくても、地方に拠点を持てば、300万円以下の予算でこんなに豊かな生活が手に入る。それは決して贅沢ではなく、自分らしく生きるための現実的な選択肢ではないでしょうか」
▲大きな反響を呼んだ同人誌『98万円で温泉の出る築75年の家を買った』。高殿さんによると「同人誌が売れたおかげで部屋のリノベーション費用がペイできた」とのこと
かつて子育てに捧げていた情熱を、今は自分の居場所づくりへと注ぐ高殿さん。マンションのリノベだけでは飽き足らず、現在、自宅近くで戸建てのリフォームに初挑戦しているのだそうです。
「戸建ての壁を家族で塗っていると、結婚25年目にして初めて夫の器用さに気づいたんです。これまでは定年後に夫とふたりで何をすればいいのか全然分からなかったけれど、こんなふうに居場所づくりをするのも悪くないなあって。私、たぶん還暦を迎えても家を直してる気がします(笑)」
新しい仕事に、将来のライフプラン。彼女が二拠点生活で手に入れたのは、パワーチャージできる居場所だけではなかったようです。
▲悩める女子たちが来訪しては元気を取り戻して帰っていくことから、「女子の尼寺」と呼ばれるように
物件DATA
所在地:静岡県熱海市
面積:39.86㎡
購入価格:98万円
リノベーション費:170万円
編集・取材・文:岸良ゆか 撮影:赤澤昂宥
WRITER
物件ファンのほかに映画メディアの編集や書籍の構成・執筆などもしています。テニスは趣味。
おまけのQ&A
- Q.直近の目標は?
- A.高校生になった息子の大学進学を控え、東京に団地を購入してリノベーションしようと計画中。家づくりの目標ばかりで、最近、自分の職業がよく分からなくなってきました(笑)。
マンションライフをもっと快適に。住まい方の質を高める「くらしちゃん」の活動とは?